広島インドネシア協会  

活動実績

インドネシアにまつわるエピソード

2023年2月6日

 2022年度も新型コロナウイルス感染拡大の影響のため独立記念祭の中止など様々な影響がありましたが、広島とインドネシアの友好促進に向け、当協会会員から、広島とインドネシアに関するエピソードをお寄せいただきました。多くの皆さまにぜひご覧いただき、広島とインドネシアの交流をますます深めていただければと思います。ご応募いただいた皆さま、誠にありがとうございました。

★インドネシアと私          <田中電機工業(株)会長 田中 秀和 様> 

★インドネシア親善訪問団の思い出   <広島経済大学 名誉教授 上田 みどり 様>

★インドネシアとの連携の歩み     <広島大学 教授 高橋 勝彦 様> 

★インドネシアに教えていただいたこと <広島経済大学 山手 貴弘 様>

★インドネシア留学生との思い出    <梅谷 忠範 様 >

★バリ島滞在記            <ペンネーム Orapopo 様>

★インドネシアに触発されて      <ペンネーム トモ 様>

★広島大学とインドネシア留学生    <広島大学 ズルハ アリアンシア 様>

※掲載順不同

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インドネシアと私 <田中電機工業株式会社 会長 田中 秀和 様>

 1997年、広島インドネシア協会の親善訪問団に加わり、インドネシアを訪れました。インドネシアを訪問したのはこの時で40回目。短い滞在ではありましたが、近代化が急速に進むインドネシアの熱気を肌で感じることができ、現地の古い友達ともインドネシア語で親しく話すことができ、大変懐かしかったことが思い出されます。
 インドネシアとの長い付き合いは、佐竹製作所(現サタケ)に入社したことから始まり、在職中の訪問は33回、滞在日数は延べで1,000日を超えました。
 最初の訪問は1972年の入社2年目で、単身、長期となる初めての海外出張でした。仕事は精米プラントの据付指導で、場所はジャカルタから車で当時2時間くらいの日本人のいない農村でした。作業者は日本語の通じない現地の方で、私はインドネシア語の知識はゼロに近いものでした。空港に出迎え現地まで案内してくださった商社の方は、すぐに他の仕事でいなくなり、途方に暮れていたところ、幸いなことに下宿先の近くに日本語専攻の大学生がいることがわかりました。早速交渉した結果、学生が私にインドネシア語を教え、私が学生の日本語の卒論の手伝いをすることとなりました。それから、毎日のように、仕事を終えた後に5時間近くかけてインドネシア語の基礎と、翌日の仕事に必要な言葉を特訓してもらい、そのおかげで3ヵ月間で日常会話もできるようになりました。

 帰国後、社内ではインドネシア通?だということになり、度々訪問することとなりました。1982年には、会社のインドネシア駐在事務所の開設準備に関わり、所長に任命されてインドネシア政府の高官ともお付き合いできるようになり、インドネシアをより広く深く知ることができ、インドネシアが第2の古里と思うほど身近な国となりました。
 これからも広島インドネシア協会を通じて、両国の経済、文化繁栄に尽力したいと思います。

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インドネシア親善訪問団の思い出<広島経済大学 名誉教授 上田 みどり 様>

 20年前の2002年夏、広島インドネシア協会の第3回親善訪問団に参加し、インドネシアのバリ島とジャカルタを訪れました。

 バリ島の海はとても綺麗で、寺院などの観光名所をはじめ、きらびやかな民族衣装のインドネシア伝統舞踊も楽しませていただきました。ジャカルタでは、広島で学ばれた元留学生による「ひろしま国際クラブ ジャカルタ支部」との交流会も開催されました。広島から本国に帰られた後、政府や企業などの要職についていらっしゃる方が多く、皆さまご活躍されている様子をお伺いしたこともよく覚えています。インドネシアは料理も果物も全て美味しく、見どころも多く、いつかまた訪れたい国です。

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インドネシアとの連携の歩み <広島大学 教授 高橋 勝彦 様>

 インドネシアとの出会いは1994年です。ジャカルタで開催された国際会議に参加しました。空港からジャカルタ市内に移動するタクシーが故障し、夜でも蒸し暑い車外で修理を待ちながら、大変なところだと感じたことが思い出されます。
 2回目は、初回から10年後の2004年でした。広島大学をはじめ国内やインドネシアの大学による共同研究プロジェクトに、急逝された中村信人先生の代替メンバーとなり、現地を訪問しました。2006年のプロジェクト終了後、広島大学とバンドン工科大学との大学間協定締結、インドネシアとの二国間共同研究、広島大学フェア開催(写真参照)・広島大学バンドンセンター設置(これらには広島ガス様、フマキラー様に大変お世話になりました)、現地企業との共同研究、広島大学とインドネシア産業省との協定締結などに関わらせていただきました。改めて確認してみると、これまでに43回、多い年は年間6回も現地を訪問し、また、インドネシアからの留学生を博士課程後期8名、博士課程前期3名受け入れました。留学生は皆、帰国して大学や政府機関などで活躍しています。
 振り返ると、出会ってから28年、インドネシアは最も関係の深い国となりました。

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インドネシアに教えていただいたこと <広島経済大学 山手 貴弘 様>

 私は大学に勤めています。学生の人間力を育成するプログラムの一環で、インドネシアの姉妹校の学生たちと共に現地への貢献活動をしている学生団体のコーディネーターを2012年からさせていただいています。
 長くインドネシアに関わらせていただいていますが、それまではインドネシア語はおろか英語さえも縁遠い生活をしており、インドネシアと聞いても「東南アジアの一国」程度の認識でした。そのため、当初は自分に務まるのか?どんな人たちなのか?拒絶されないだろうか?安全なのか?と不安な気持ちで渡航したのを覚えています。
 しかし、実際に渡航すると、いつも笑顔を絶やさずにおおらかな雰囲気で、「Tidak apa-apa(大丈夫)」と緊張している私に親しく話しかけてくれるインドネシアの方々のおかげで、すぐにインドネシアが好きになりました。大雑把なところもありますが、小さなことにはこだわらず、大局的に物事を見ることが大切だと教えてくれるように感じています。
 インドネシアは、自分がいかに狭い世界に生きていたのかと気づかせてもらえた、私にとって大切な国です。これからも学生たちと共に学びながら、インドネシアに貢献していきたいと思います。

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インドネシア留学生との思い出 <梅谷 忠範 様 >

 30年前(1992年)、仕事の関係で留学生と交流が始まりました。その後、本格的に支援を始めたのは、1999年のことです。定年後に自宅を立て替えてホームステイなどの活動を始め、20年が経過しました。接した留学生は450人を超え、多くの経験を楽しむことができました。
 その中で、初めて経験した出来事をご紹介します。2013年11月、元留学生の結婚式に、夫婦で「日本の両親」として参列しました。場所は、日本の古い歌にもありますが、インドネシア「ソロ」で、日本のイメージで気楽に承諾しました。ところが、前日からホテルで衣装合わせなど体験し、当日は目まぐるしく変化する様子に驚くだけです。結婚式には2,000人を超える参列者がいるのを見て、さらに驚きました。言葉がよく分からず、見たこともない結婚式の流れの中で、式の進行を見ながら、なんとかついていきましたが大変でした。私たち二人は、2,000人の参列者がいる会場の広い舞台で、日本の両親の大役を仰せつかり、感動することの連続でした。特に、それぞれの両親から、新郎新婦を今日まで育てることができたという熱い気持ちが伝わってきたときは、私たち二人は心から感動しました。
 現在、コロナ禍で連絡はネットの交信ですが、私たちの夢は、今までの経験を子どもたちに引き継ぐこと、帰国した留学生が子どもと一緒に日本に来てくれることです。とても楽しみにしています。

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バリ島滞在記 <ペンネーム Orapopo 様>

 私は学生の時、インドネシアバリ島出身の留学生と仲良くなり、バリ島へ4泊5日の旅行をしたことがあります。
 バリ島で最も美しいとされるタマン・アユン寺院、霧の中にたたずむ幻想的なウルン・ダヌ・ブラタン寺院、世界遺産でもある棚田ジャティルイ、夕景と寺院の守り神とされるウミヘビで有名なタナロット寺院、バリの昔ながらの生活を守る村パンリプラン、人々の信仰の対象として世界遺産にも登録されたバトゥール湖とその周辺にあるバトゥール温泉、ホワイトサンドビーチなどを巡りました。風景や建造物の一つひとつが日本のものとは異なり、そこに神秘性や豊かな自然と調和した信仰や暮らしに刺激を受けました。
 その中で最も印象に残っているのは、ウルワツ寺院で鑑賞した伝統舞踊「ケチャ」です。悪魔祓いの儀式とインドのラーマーヤナという叙事詩を組み合わせたもので、ストーリー性に富み、楽器はありませんが、40人ほどの男性たちによる「チャチャチャ」という力強い掛け声に圧倒されます。物語が佳境に入るころ、夕日が沈みすっかり暗くなった舞台上では火の演出なども行われ、より神秘的な雰囲気を味わうことができました。ウルワツ寺院に行かれる際はぜひ鑑賞してみてほしいです。

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インドネシアに触発されて <ペンネーム トモ 様>

 社会人となって約16年が経過し、働き方や日常の考え方として「以前も似たようなことをしたし、今回もこんな感じで動けば大丈夫だ。」と要領を掴んだ気になりつつある年齢です。
 当初、夢にまで見た職に就くことができたものの、様々な思いを巡らし、何の保証もないまま、自分の理想だけを信じて転職したのは、若さゆえの勢いだったのかもしれません。
 さて、ここでインドネシアに思いを巡らせると、学ぶべきことが多くあります。
 『首都移転』
 このような壮大な発想や計画、行動を自身が選択できるでしょうか?
 もちろん、インドネシアと日本の歴史や文化、社会情勢は異なりますが、それをそのまま言い訳にしていないか?若さ(情熱)を失っていないか?
これを自問してみると、「今は、守るべき家族がいるし・・」「理想と現実は違うから・・」「チャレンジするって疲れるよね」なんて言いがちな自分がいます。
 広島インドネシア協会のお陰で、首都移転の発想(ここまで壮大ではないですが)と、目的の実現に向けた行動力を見失っていないと感じます。
 好きな言葉は、「前例踏襲」ではなく、「前例は、ないのですが」にしたいものです。

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広島大学とインドネシア留学生 <広島大学 ズルハ アリアンシア 様>

 広島大学には、多くのインドネシア留学生がいます。私たち留学生が東広島市でお世話になっているインドネシアのハラル料理のお店や、インドネシアからお越しになった講師2名を囲む歓迎会についてご紹介します。

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【ワルンRE HANA】

 東広島市に、新しくインドネシアのハラル料理のお店「RE HANA」ができました。
 私のイチオシは、ナシ・ルンダンと、チキンカツサンドです。「ルンダン」とは、牛肉をスパイスやハーブがたっぷり入れてゆっくりと煮込み、柔らかくジューシーに仕上げたインドネシアの料理です。「ナシ」はインドネシア語でご飯のこと。「ナシ・ルンダン」は牛肉が主役ですが、キャッサバの葉や緑のサンバルが添えられており、本場インドネシア料理の最高の味を味わうことができます。

 住 所 〒739-0012 広島県東広島市西条朝日町7−7 2F
 定休日 月曜日

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【インドネシア財務省からの講師2名を囲む歓迎会(オタフクソース様ご協力)】

 11月30日(水)、広島大学において、インドネシア財務省の2名のアドバイザーであるチャンドラ・ファジュリ・アナンダ教授とヨン・アルサル博士による‘コロナ禍におけるインドネシア経済の回復力’をテーマとした一般講義が行われました。
 午後の講義の前には、広島大学の小丸パビリオンにおいて、インドネシア留学生による歓迎イベントも開催されました。経済学教授おふたりによるカジュアルなトークをはじめ、オタフクソース(株)からはランチにお好み焼きをご提供いただき、また、マレーシアで販売されているハラルお好み焼きソースについてもご紹介いただきました。先生方も学生もみな、大いに楽しみました!(私はお好み焼きを2人前も食べました)

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